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梶谷エルダー天国へ・・・

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燃える豆魂日記【豆腐道とうふみち】にようこそ。
山下ミツ商店の山下浩希です。


芝寿し創業者の梶谷忠司相談役(商業界エルダー)が一昨日11月30日朝8時前に97歳の天寿を全うし大往生を遂げた。

一昨日のお昼頃、商業界石川県同友会で事務局を担当している山本寛修さんから連絡が入った。御高齢とは言えこれまで梶谷エルダーがお亡くなりになるという事などこれっぽっちも考えた事もなく「梶谷エルダーは100歳まで生きるんだ」と思い込んでいた僕は信じられないというより事実を受け入れられない、信じたくないという感じで頭が混乱した。

直ぐに長男の梶谷晋弘社長に電話をすると「今朝、眠るように静かに亡くなったよ」といつもの明るい声で話してくれた。梶谷さんは心の準備が出来ていたようだ。

「何かお手伝することありますか?商業界関係への連絡等しましょうか」と言ったが

「東京の商業界にはさっき電話して高岡さんに伝えたよ」「父の遺志でお葬式もしないから親しい人にしか伝えていないんだ。だから何もしなくていいよ」という応え。

誰よりも悲しいはずの梶谷さんのいつもと変わらない声を聞いていたら涙が込み上げてきて声が出難くなる。

「これから行ってもいいですか?」と言ったら

「どうぞどうぞ」言って下さり金沢四十万の御自宅に向かって車を走らす。御自宅までの一時間弱、いろんな想いが頭を過ぎる。

御自宅に着くと本当にあまり誰にも伝えて無いらしく御家族と御坊さんしか居なかった。

奥の部屋に入り梶谷エルダーのお顔を見る。綺麗なお顔だ。ただ、物凄く痩せていた。最後にお会いした9月にはこんなに痩せていなかったのに・・・。

長居してはいけないと思い「明日は夫婦でお参りさせて下さい」とお願いし御自宅を出て向かいの公園のベンチにしばらく座っていた。

訃報を聞き付けた方々が御自宅に入っていく。その中には商業界同友会で御一緒している(株)小林太一印刷所の小林社長やアーク引越センター北陸(株)の西野社長等も。

焼香を終えた小林さんと公園で梶谷エルダーの思い出を語り合った。

翌日、妻の榮子とお通夜へ。
「自分が死ぬことで、スケジュール変更させてお通夜や葬式に出てもらいみんなの仕事に迷惑をかけたくない」という根っからの商人で周りの人に人一倍気遣いをする梶谷エルダーの遺志で新聞のおくやみ欄にも載せなかったので御親族と梶谷エルダーに親しくお世話になった人だけが参列していて、お取引先らしき人は見えない。

参列者の中には五郎島金時の焼き芋を全国に販売している(有)かわにの河二さんもいる。涙で目が真っ赤だ。

河二さんはお昼前、「今、東京なんですが梶谷相談役がお亡くなりになったという情報が入ってきたのですが山下さん、本当ですか?」と電話をかけてきた。自分から梶谷エルダーの訃報を広げるのは控えていたが、問い合わせてきた人には話したほうが良いと思い「今晩お通夜だから河二さんも来たら」と勧めた。

河二さんも10数年前までは、すいかと五郎島金時の栽培だけをしていた農家だったが、梶谷エルダーから「五郎島金時を焼き芋に加工して付加価値を付けて売れ」とアドバイスされ実行し大繁盛。この夏、新工場を建設し竣工式には梶谷エルダーも駆けつけて下さったそうだ。

お通夜の後、御自宅の向かいにある工場の2階の和室でお寿司を摘みながらみんなで梶谷エルダーの思い出を梶谷さんの指名順に話した。皆さんのお話を聞いていて、如何に梶谷エルダーが人々に徳を与え続けていたかを改めて実感した。


そして今日、10時に出棺されるという事で、最後のお別れに行ってきた。

葬式はしない。

それぞれが焼香を済ませ10時。

出棺。

本当に最後のお別れだ。

奥様のさわ子さんも泣き崩れる。

僕も涙をこらえ切れない。

梶谷エルダーの遺体は火葬場でなく、これも梶谷エルダーの「死んだ後でも世の中の為に役に立ちたい」という遺志で金沢大学医学部に献体された。

正に、最後の最後まで周りの人々は勿論、社会にまで与え続けた97年の人生。


芝寿しは石川県に住んでいるいる人なら知らない人はいないくらい有名な「笹寿し」という押し寿しを中心とした弁当メーカー。

僕も学生時代、夏休み等で帰省し学校が始まり大阪に戻る時は決まって芝寿しの「笹寿し」をお土産にしていた。


僕が梶谷エルダーを知ったのは26年前。マルエーという地場食品スーパーに就職して働いていた時、たまたま休日だった水曜日、『モーニングショー』という朝のワイドショーの中に「宮尾すすむの日本の社長」というコーナーがあり梶谷エルダーが出演されたのを偶然観た。

梶谷エルダーの御自宅のお風呂はお湯の張ったお風呂と水風呂の2層ありそこを梶谷エルダーが7往復し、それを真似しようとした宮尾すすむが余りの水の冷たさに震え上がったりする場面や白山比咩神社でのお一日参りの帰りに食べた笹餅が「笹寿し」商品化のヒントになった事を話される場面、御家族が玄関の前に出て梶谷エルダーが作詞した替え歌「我ら人生60から」を合唱する場面等があり、その時は「金沢の芝寿しの社長って面白い人だなー・・・」という感じで笑いながら観た。

その後、スーパーで働いていた関係で購読していた商業界の『食品商業』という雑誌に商業界箱根ゼミナールの案内が出ていた。そのゼミの運営委員長が梶谷エルダーで写真とお名前が出ていて「あの芝寿しの社長だ・・・」とその時完全に梶谷エルダーの顔と名前を覚えた。

でも、その時はまさか自分が商業界ゼミナールに欠かさず通うようになる事も、

それがきっかけで梶谷エルダーと直接知り合い御指導頂くようになる事も、

結婚式で媒酌人を務めて頂くようになる事も、

まったく思いもせず、考えもせず、夢にも見なかった。

つづく。


※最後までお読み下さいましてありがとうございました。

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